様々な苦難を乗り越えてたどり着いたポセイドン。俺たちを乗せたタクシーは今その道を180度真逆に走り続け、再びアソークに辿り着こうとしていた。


助手席から窓の外に目をやると、車道の左側に賑やかな飲み屋街が見えた。ナナに並ぶゴーゴーバーエリア、ソイ・カウボーイだ。「TO PLAY OR TO DIE ?」遊ぶか死ぬかと問いかける強気な看板を掲げた入り口に吸い込まれそうになり、思わず「ここで降ります」と口走りそうになるが、駄目だ、時間がない・・。


そう、時計はもう午後九時に指しかかろうとしていた・・午後一番で出てきてこの時間・・いくらなんでも八雲とテケレツを待たせすぎている!


「運転手さん・・友達が待ってるんだ・・悪ィけど少し急いでくんねえかな?」


俺のこの軽はずみな要求は、一分もしないうちに痛烈な後悔に変わった。


昼間の渋滞が嘘のように空いている道路、それでも車やトゥクトゥクがぼちぼち走っている。その脇を後ろを猛烈な勢いでブッ飛ばすクレイジータクシー、スピードの向こう側に取り憑かれたこのアホ運転手のタクシーこそがそれだ。そう、この男は「飛ばせ」の一言を予定日より1週間以上遅れていた生理のように待ち望んでいたスピード気違いだったのだ!


「おいッ!急げってのは何も死に急げってことじゃねえんだよ!!」


シートベルトを握りながら絶叫する俺の懇願も空しく、運転手は小惑星群をミレニアム・ファルコン号で切り抜けるハン・ソロのような狂気の眼差しで、エッジの効いたハンドリングを披露し続けた!


気違いの運転する車に乗っているのがこんなにも疲れるものとはついぞ思わなかったが、その甲斐あってか往路であれだけの時間をかけたポセイドン・カオサン間が、わずか30分程度で移動できた。命と引き換え・・という効果の大きさに改めて驚愕する一同。


タクシーから駆け下りると俺たちは獅子奮迅の勢いで、途中犬などを蹴りながらK‘sゲストハウスへ向かった!


時間は2130分を回っている!


タイの最終日、共に思い出を作るでもなく、街を楽しむでもなく、こともあろうかタイ産オマンコに一日の全ての時間をつぎ込んでしまった俺たち4人はもはや罪人に等しい。スッキリと抜いてきた今なら、最終日に何をするべきだったか二秒もかからずに色々浮かぶにのに!嗚呼!!


レセプションを駆け抜けて二階奥の大部屋を目指す。通路が細いのでドラクエのように縦一列になっている俺たち、そして気がつくと俺が一番先頭だった。


「お、俺が先頭かよ!?」

「いいから早くドア開けてワビ入れろ!セックスしてて遅くなりましたって!」


考えていたらいつまで経っても開けられない。俺は深呼吸をしてから勢いよくドアノブを捻った!

 

「すいやせん!!お待たせ致しましたぁぁぁッ!!!」


最終日の貴重な時間を無駄に待たされた怒り、それはよく研がれた鉈のように鈍く重い、しかし鋭い切れ味を持つ空気となって部屋の中を満たしていた。


何よりも楽しみにしていた海外でのライブを、ブスとの飲み会を断るかのようにあっさりポシャったメンバーへの失望からか、テケレツはベッドの上で毛布に包まり脱皮寸前の芋虫のように震えていた。


八雲はおそらくはカオサンで買ったのであろうお土産、セパタクローのボールを虚空に向かって放り投げながら、地獄の底のオロロン岩が呻くような低い声で一言、


「・・遅かったな」


と呟いた。それはまるで銃弾のように熱く鋭い、えぐるような怒りを表していて、普段の温厚な八雲を思うとその怒りがどの程度のものなのかは容易に推察できた。


「お・・俺は早かったんですよ!?でもタグッツォの遅漏野郎が遅くって・・このイカレ海綿体!お前も謝れ!」

「すいません!でもあのクソプッシー!まるでマリアナ海溝みたいに突いても突いても底が見えなくて・・それで気持ちが何度も折れて・・それで・・それで俺・・」


タグッツォの必死の弁明に気おされて、八雲も思わず苦笑いを浮かべた。

 

「・・セックスの東インド会社と呼ばれたほどの強豪タグッツォがそんなに言うなら・・まあ、

こうなったらもう仕方ないよ、とにかく俺は待ち疲れて腹が減ってるからさ、飯を食おうよ・・最後の晩餐を!」


漢、八雲はそれ以上俺たちを責めることは無かった。


「許された!」

「わ・・我、終生の友を得たり!」


前田慶二に認められた時の結城秀康の気持ちになって涙ぐむ俺とタグッツォ。そうと決まれば早速最後の晩餐じゃい!


最後の晩餐に相応しいものは何か?普段ならばおばちゃんちで即決なのだが、空港へ向かう時間の都合もあるので手っ取り早くバーミーにすることに。


さっと炊いた鳥ガラスープにニンニクの欠片や唐辛子を散らして、パクチィの香りを楽しみながら一気に麺を口に放り込む・・やっぱりバーミー最高だ!!これでまた暫くバーミーが食えなくなるかもしれない、そんな寂しさを紛らわせるべく俺は二杯を一気に平らげた。


再び宿に帰りパッキングを済ますと、いよいよカオサンを離れる時間が近づいてきた。

幾度と無くタクシーを拾ったK‘S前の通りで、今最後のタクシーを捕まえるべく手を上げる。


「待ち合わせは今度こそ第二ターミナルのインフォーメーション前・・」

「はいはい・・いい加減くどいよ・・・」


勝手に待ち合わせ場所を変えられた事への当てつけもさらりと流されてしまい、切なさはいよいよ最高潮に。


捕まえたタクシーに三人ずつ乗り込む。またも俺、タグッツォ、テケレツのチームを組まされる・・彼らは歴史に学ぶという事を知らないのだろうか?


そもそも何故こうもこの三人で組まされるのかというと、俺の事を一方的に厄介者だと思っているパクチィ・朽犬の両者によってチームわけの際に恣意的な人選が行われるからだ。

チームA 

パクチィ・・安全至上主義者

朽犬・・・・リスク分散型

八雲・・・・寄らば大樹

チームB

タカシーノ・・トラブルメーカー

タグッツォ・・なんでも我慢できる人

テケレツ・・・役立たず 


以上の分析からどう考えても臭いものは蓋、ゴミはゴミ箱へといった感じで選別されているのだと思う。ちなみにこの場合におけるタグッツォの役割は俺がキレたり暴言を吐いたりするのを事前に抑止し、かつテケレツの本気で引っ叩きたくなるような信じられないトラブルや間の悪さに対応するという、言うなれば原発の炉心融解を見張る警備員とほぼ同じでハイリスク・ノーリターンの典型とも言えるポジションだ。


前日のカオサンで勢いに任せて買ったタイの三角枕(マット付き)、それを二つも果たして車内のどこに置くべきかと途方に暮れている俺たちを尻目にAチームを乗せたタクシーは、あたかもチームの優劣を証明するかのようにすでに空港に向けて走り出した。焦った俺たちも助手席に枕を放り込んで、ガレー船のように人と人が押し込められたタクシーをなんとか出発させた。


屋台の裸電球、安っぽい電飾で飾られたバー、そこにたむろする人々、トゥクトゥクの後ろ姿、でたらめに並べたレゴブロックのような文字、セブン、ファミマ、セブンと並ぶ無駄なコンビニ展開、窓を流れる景色すべてが不思議と懐かしいという感情を湧き上がらせる、たった10日程度すれ違っただけの国がまるで故郷のように感じられるのだ。


思い思いの感慨を胸に自然と無言になる車内、すると突然アナルファックをされたウシガエルのような餌付きが響いた。タグッツォだ。


 「・・おい・・うるせえよ。車にでも酔ったのか?」

 「オッウェェエッ!!!いや・・だって・・もう帰るとか・・ォウェェッ!!あー!クソッ!仕事に戻りたくねえよ!!なあ、やっぱ俺残るよ・・金ならあるんだよ・・」

「逃げんじゃねえ!この最終日の発作ってのは旅人なら皆経験するんだよ!!また来ればいいじゃねえか!また来れば・・来れるなら・・」


そう言いながらもどんどん切なさを増す車内。あのプラキオサウルスのように血の巡りの悪いテケレツすらも、リハビリ中の植物人間のようなかすかに切ない表情を浮かべている、これはある意味奇跡だ。


しかし彼らの気持ちも分からなくもない。かく言う俺が今年こんなに落ち着いていられるのも、去年の最終日「俺はもう日本には帰らない」と半端じゃない駄々をこねて、生理が止まるほどのストレスと迷惑を朽犬とパクチィに与えた反省からだ。


去年の最終日、日本に向けて飛行機が飛ぶその三時間前まで、俺たちはまだゴーゴーバーで遊んでいた。前述したナナプラザの「レインボー2」ですでにベロンベロンなっていた俺は、バッグからやおらパスポートを取り出し、


「これをお前らにヤルッ!!だから結婚しろ!俺はクソジャパニーズだぁぁ!!!国籍やるぞォォ!!ホッキャァァァァ!!!」 


と夜叉猿ばりの絶叫を上げてパスポートを投げ捨てたりしていた。


パクチィは日本国籍を狙う売れ残り娼婦達から、その無造作に放り投げられたパスポートをかるたの要領で最速で死守すると、俺の腕をヘシ折る勢いで掴み、


 「行こう・・時間がない・・」


と低く呟いた。


その声のトーンはまさに、致命的な作戦ミスを犯した兵士の喉をフォースで思い切り絞めるつける時のダースベイダーそのものだったので、命の危険を察した俺はビビってすぐさま退店の準備をした。


しかし一度入れた酒がそんな簡単に抜けるはずもなく、空港に向かうタクシーでも沸きあがる想念に任せてやりたい放題!コンビニの横で急停車させてさらに酒を買い込むと、自分だけに飽きたらず運転手にもそれを勧めて、さらに罵声を飛ばす。


「ボンクラッ!もっとアクセルを踏み続けろ!どうした?その程度の勇気でよく今のカミさんのマンコが舐められたなこの野郎!」


途端にボンドカーのような猛烈な加速を見せるタクシー、助手席から真顔で運転手をたしなめる朽犬。


「タカシーノ・・頼むから死ぬなら独りで死んでくれ・・」


そう言う朽犬の眼は、「ミギー・・ぼ・・防御たのむ・・」と言った時のシンイチのそれと同じだった。


「死」を覚悟させるようなホイルスピンを何度か繰り返しながらもどうにか空港に到着したが、それでも俺の暴走は止まらなかった。


お土産用に買ったチャンビアーを片っ端から開けて飲み始める俺を、もはや怒りを超えてアパシーに陥ったパクチィが静かに睨む。朽犬はどうせ無駄だと思いつつも「もう止めたら・・」と一応注意を喚起する。


「うるせえええええ!!ここはタイだ!俺はタカシーノだ!俺は俺の大好きな国で俺の大好きなことを俺の気の済むようにやるんだヨォォォッ!!」

「・・じゃあ勝手にしろ・・朽犬・・行こう・・」

「置いていかないでくれよォォォ!!!ブチャラティィィッ!!」


ナランチャの躍動感あふれるクロールをベンチの上で再現しながら、彼らへの同行の意思をアッピールする俺。


ここからの記憶がもうかなり薄い。


泥酔している俺をあたかもKGBのスパイかのようにあからさまな疑いの目でかかる税関職員に腹を立て、手荷物検査の機械に飲みかけのビールをわざと置いて、案の定倒れたビールがベルトコンベアをビシャビシャにするという、今思い出してもアナルの周りから鳥肌が広がっていくような挑発的な行動に出て、二、三人の税関職員に囲まれる中をパクチィが必死で俺の手を引いてその場から連れ去ってくれた事はなんとなく覚えている。


その後出発までの時間をロビーで熟睡し、機内への搭乗開始とともに一目散に機内の便所に駆け込んで大量のゲロを吐く。


体がシビれるほどの気分の悪さに便所でうずくまっていると、外から異変を感じたスチュワーデスが声をかけてきた。


「・・お客様・・あの・・飛行機飛びますけど・・」

「・・おい、勝手に飛べばいいだろ・・いちいち俺に断るなよ・・」


とは言ったもののこのままここにいるわけにも行かないのは、さすがの俺にも理解できる。

今さっき吐いたばっかりだから、次のゲロがチャージするまではまだ時間があるだろう。俺は最後の力を振り絞ってヨタヨタと席に戻っていった。


「・・!お前どこに行ってたんだよ!?」


席に戻るなり朽犬が驚いた表情で問いかけた。説明するのもダルいので俺は一言、


 「ゲロ」


と単語だけで爽やかに答えた。


 「お前・・つぼ八じゃないんだからゲロで便所に籠もるなよ・・テロかと思われるぞ」

「だからゲロだったんだって・・」


かみ合わない話を切り上げて、俺はかろうじてシートベルトをするとすぐに意識を失った。後にパクチィから聞いた話によると、離陸して機首が上がり、皆が後ろにのけぞっているのに俺だけは壊れたパペットのようにグニャグニャと前のめりになっていて、まるで死体のようだったと言う。


結局、目が覚めたら日本についていた俺の帰国便体感時間は約10分程度、埼京線板橋駅から新宿までの時間だった。タイがものすごい身近に感じられた瞬間だったよ。


「・・とまあ、去年は荒れに荒れたのですよ?コメンテーター風にいうなれば寂しさから引き起こされた悲劇といいましょうか・・」

「滝川クリステルかよお前は・・最悪だな・・」


 発券を終え、荷物を預け、出発までの最後の小一時間を二階のロビーで過ごすメンバー。


 「まあ、しかし海外でそれだけ傍若無人な行動にでて、よく殺されなかったね。」


八雲が感心したように尋ねる。


 「そりゃあもう、俺には捨丸、岩兵衛こと朽犬、パクチィという強力なガーディアン・エンジェルがついてますから。」

 「いや、だから・・その二人からさ・・」

「・・・・」


パクチィが静かに頷いた。しかしそこでタグッツォが珍しく俺を庇う発言をした。


 「俺にはタカシ―ノの気持ちが分からないでもないよ。海道一の弓取りと世に謳われた漢も寂しさには勝てなかったのさ・・へへ・・俺だって、今必死だよ・・?こんなとこに酒が入ったら確かにどうなることか・・」

 

そう言って売店で買ったチャンビアをグビグビと喉を鳴らして飲むタグッツォをテケレツが不安そうに横目で見る。


ノー・モア・トラブル。


心のキーワードが一斉にメンバーの頭に浮かんだ。


酒に酔うタグッツォのたちの悪さは、やたらと前戯をせがむ割に自分はフェラチオ一つしないクソ女と同義だ。


初めてタグッツォに会ったときも散々なものであった。


当時俺とパクチィしかメンバーがいなかったので、難民の音楽活動は完全に停滞していた。そこに現れた一筋の光明、難民を手伝ってくれるかもしれない人間がいる。


それが彼、タグッツォだった。


同じ職場で働くパクチィを仲介人に早速彼を家に招いてはみたが、当時無職だった俺はふるまい酒の一つも用意できない状態だった。何とかならないかと近所の商店街を歩いていると、「特出」の張り紙と共にあからさまに古くカビたウォッカが無造作に籠に放り投げてあった。


 「・・300円!?」


ペレストロイカの余波が時を経て今、板橋区大山商店街にまで届いたのか・・俺は有り金、5円玉と1円玉をも動員して何とかそれを購入した。


俺自身久々に買った酒なので、友の到着を待ちきれずについ先に飲んだその一口で俺は驚愕した。危うく目が潰れるかと思ったのだ!間違いなく人が飲めるものではない。喉に流し込んだ瞬間、犬ゾリに乗ったスティービー・ワンダーが「イズント・シー・ラヴリー?」と「トロイカ」を交互に熱唱するビジョンが頭を駆け巡った程だ。


そんな恐怖体験とはお構いなしに、パクチィが件の男を連れて家に来た。気さくなヤサ男、最初の印象はそんな感じだった。


どんな音楽が好きで、難民はこんな感じの事がしたい、などと月並みな探り合いが続くが初対面の緊張からかどうにも話が潤滑には進まない。仕方がないので封印したはずのロシア製バンカーバスターを投入することに。


十分後、ヤサ男は顔を真っ赤にしながらレディオヘッドの「クリープ」のサビ前のブラッシングをものすごい勢いで繰り返し弾き続けたまま止まらなくなった。しまった効きすぎだ!


部屋で騒がれても迷惑なので、この生ゴミを公園に誘致することに。「夜風にあたろうか・・」というとタグッツォはお気に入りになったらしいウォッカを片手にギュッと握り締め、厄介払いされるのにも気付かずにニヤニヤとしながら後をついてきた。


公園に着くと彼は即座にブランコに乗り、振り子のリズムに合わせて意味不明の奇声を数度上げると、「ジャックアス」でもあまり見られない程の派手な墜落を見せた。


あの落ち方はしばらく立てない、そんな俺の常識を覆すようにタグッツォは二秒で跳ね上がると、泥酔してブランコに乗るという己の愚行を棚に上げ、ブランコに罵声を浴びせながら蹴りを放った。しかしその蹴りも空振りし、逆にブランコに足をとられて再び転倒し頭を打った。


ムカついたから帰る、といって試合後のレスラーの様にヨロヨロと引き上げていく背中を眺めながら俺はパクチィに素直に尋ねた。

 

「・・なんであの人紹介したの?」

「・・家が近かったから。」


ちなみに翌日起きたタグッツォは気分が悪いことに不安を覚え、頭を打ったことを思い出してすぐに病院に頭部CTをとりに言ったものの、「二日酔い」と言われ大恥をかいたとの事。正真正銘のアホだと分かったので難民に加入させることにして今に至る。


そんなわけでタグッツォがキレたらおそらくメンバーの誰もが手に負えない。なるべく彼を刺激しないような会話運びを心掛け、隙を見て俺とパクチィはお土産のチャンビアを買いに行く、と場を切り上げた。


空港から続く歩道橋を使って道路をまたぎ、眼下に見える線路を越えるとドン・ムアンという小さな駅がある。空港のすぐ隣の駅なのに利用客が少ないのか、19歳の頃からこの駅を見ているが、ホームの間にフェンスができたこと意外の変化は全く見られない。あの頃と変わらず小さく汚いままだ。


その東武東上線中板橋駅を彷彿とさせる寂れたホームに隣接した、さらに寂れたセブンイレブンこそが俺が生まれて初めてタイで買い物をした場所だ。


パクチィとありったけのバーツをつぎ込んで店員も驚くほどの量のチャンビアを買い占める。これが今回最後の買い物だ・・そう思うと手が止まらなかった。

大量の酒をガチャガチャと鳴らしつつ歩道橋へと戻る足を俺はふと止めた。


「見ろよ」


パクチィがつられて立ち止まる。


午前1時を回った夜の空気はしかしなおまだ暖かく、日本のそれとは大きく違っていた。ぬるむ夜風が体を撫で付けると、湿気と汗で肌に吸い付いたシャツが少しだけはためく。暗闇の中、原色に光る空港の明かりは小さい頃にみた公園の灯を思い出させ、それとは対照的にすでに明かりが乏しくなった町の方では、俺たちの帰国などまったく関係のない人々がいつもの一日をとっくに終わらせている頃だろう。


「タイは・・いい所だよな。」

「・・全くだ。」

「このレールを見ろよ、これは南北線かな?チェンマイのほうに行くやつじゃねえかな?真っ暗な闇に続くこのレールがまるで俺たちの人生だと、そんな陳腐な例えはしないけどな・・」


俺は感傷に任せて恥ずかしいセリフを続けた。


「こんなに色々やったつもりだったけど、世界の大きさを考えたら俺たちはまだ何も見てないし、やっていない。世の中には生きているうちに見るべきものや感じるべきものが、想像以上に多いと思うんだ。タイ旅行はまだまだその始まりだよな。」


買ったばかりのチャンビアの栓を抜いてパクチィが俺に勧めてきた。彼もまた、帰国間際のやるせなさを誰かと分かち合いたい様子だった。


「タイに来ること自体は誰でも出来る事だけど、これだけの期間、これだけの仲間と一緒にここで過ごせたってのは本当にかけがえの無いものさ。どれくらいの人間が、生きているうちにそんな本当の仲間を見つける事ができるんだろう?いや、俺にとってお前らはもう兄弟だよ。」

「約一名・・ほんとに兄弟ができたじゃないか・・」

「おい!あの棒枯らし女の話はやめろ!それとな、ロビーで見たけど俺とヤッた後のほうがいい笑顔してたよッ!」

 

タグッツォと俺のただならぬ関係を揶揄されたことで、旅の引き際の美しいノスタルジーが一気に、口に出したザーメンをおもむろにティッシュにPEッ!と吐き出された時のえもいわれぬ虚しさと怒りに変わり、興ざめした気分で皆の待つ二階ロビーへと引き上げた。


旅人気分の自分に酔った俺が歩道橋で無駄な語りをくれたせいで、もはや搭乗時刻は過ぎていた。早々に荷物をまとめて税関を通ると、後は飛行機に乗り込むだけだ。


俺は今一度みんなの顔を見渡す。


見慣れたはずの小汚い顔も、異国の地で見るとまた違って見える。道路に人のクソが落ちているのを見た時と同じだ。


始めは何でこいつらが板橋でもなく中野でもなくタイにいるんだろうと強い違和感を覚えたが、今にして思えばこここそが俺たちの本当の居場所なのではないのかとすら思えてくる。


それを証拠に、みんないい顔してたぜ?


キョ―ダイ、キョーダイ、タグッツォ


役に立たない、本当に役に立たないけど雰囲気をいつも和ませてくれたテケレツ


物言わぬ笑顔でいつでもみんなの後を押してくれた八雲


冷静で狡猾で、味方でよかった、と何度も思わせてくれる交渉術をもつ朽犬


SV業務で培った統率力とメタル上がりの脚力で烏合を見事にまとめ上げた難民の土方歳三こと英雄パクチィ


そして、お世話になったすべての人。


コプクーン・クラッ!


・・とうとうボーディングの時間が来た。我先にと機内に乗り込もうとするあわて者のバカ日本人どもをゆっくりと見守ってから俺は言った。


「さあ・・みんな帰ろうか?」

「おお!」

「しみったれじいさん!そしてそのケチな・・」

「はいはい、忘れたくてもそんなキャラじゃねーよおめーはよ!早く行くぞ!」


俺の一番やりたかったことをさっさと切り上げて、タラップを悠々と歩いていくメンバー。俺もとぼとぼと後を追って座席に着き、リクライニングを倒して一息つくと、今の今まで忘れていた一つの疑問が頭をよぎった。


「八雲さン・・」

「ン?」

「・・そういえばドリアンういろう・・どうでした?」


亜空間にバラまかれた彼の中の時間をたどり二秒ほど沈黙する八雲、そしてハイパーダッシュモーターを搭載したアバンテのスタートダッシュ、まさにその勢いで「あっ!」っと叫ぶと一言吐き捨てた。


「・・忘れてた。」 


飛行機は日本に向かって滑走路を走り始めていた。